西本願寺 東本願寺 何故?

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都にある東本願寺西本願寺は、いわゆる通称というものであります

西本願寺は正しくは龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山です

一方、東本願寺は正しくは「真宗本廟」といい、真宗大谷派の本山です
戦国時代、石山合戦で一向宗本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗石山本願寺から追われます。

 その時、本願寺のトップだった顕如(けんにょ)はこの決定に従って紀伊の雑賀(和歌山)に移動しました

顕如は三男准如顕如の三男)を後継者として選び、長男教如を廃嫡してしまいました

ここで、秀吉の女遊びがあります

顕如が病没すると、秀吉は長男である教如を後継者として指名したしかし、翌年生母如春尼は顕如が自分の子供の三男准如を後継にするという生前の譲り状を添えて訴え出で許されます。

如春尼は美人で、秀吉と何かあったとのこと 小説の話です

三男准如は、 京都の烏丸で本願寺の再興を許されます

その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、
教如門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです

違いは、本願寺派中興の祖、蓮如上人の五帖御文の呼び方が、本願寺派が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派が「御文(おふみ)」ということ、日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます

焼香の回数が本願寺派は1回、大谷派は2回。お仏壇の様式が微妙に違うところがあります

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女は恐ろしい

 

 

 

 

アガペー

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Agape(アガペー)

ギリシア語: αγάπη)

キリスト教における神学概念で、神の人間に対する「愛」を表す。

神は無限の愛(アガペー)において人間を愛しているのであり、

神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので、

「無償の愛」とされる。 また、それは不変の愛なので、

旧約聖書には、神の「不朽の愛」としてでてくる

 

学生の時、教えていただいた

私も、こうありたい

 

 

 

 

キリスト教 カトリックとプロテスタントの違い

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カトリックは神父・修道士・修道女・修道院があり結婚せず神に仕える

女性の神父はいない

プロテスタント教会の牧師は結婚可能

牧師は女性もいる

カトリック教会はローマ法王が頂点の一大組織

プロテスタントは何百派の宗派毎に組織がありどこにも属さない独立した教会もある。教えの上で大きな違いはプロテスタントは神と個人が直接の関係を持つ

カトリックの神父は神と個人を仲介役

プロテスタントの牧師は教会のまとめ役・指導者なので全く役割が異なる。

プロテスタントは父・子・聖霊の三位一体の神だけ信じ祈る対象とし聖書の登場人物は母マリアでもただの人間とされる

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カトリックの教会

カトリック聖母マリアは聖なる女性として祈りの取次をする特別な存在とされる。生前の行いなどにより死後カトリック教会から聖人と認められた人は信仰の手本とされる

お祈りの後十字を切り洗礼名があるのはカトリック

プロテスタントは洗礼名なし十字も切らない

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プロテスタントの教会

私はカトリックプロテスタントも経験したが、家は浄土宗、知恩院派です

追伸

ジャンヌダルクのお話

「神の声を聞いた」と立ち上がった

しかし、神との関わりはバチカンを通さねばならない

後に許されたが

それに反したので異端とされて、火焙りにされた

 

六根清浄(ろっこんしょうじょう)

 

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目、耳、鼻、舌、身、意

六根、執着を断ち心を清らかな状態にすること

六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道

(八正道)を往くことはかなわない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。「六根浄」ともいう。

かつては登山の際に掛け声としても用いられ、落語「大山詣り」などにもその様子が描写されている。戦前までは富士山への登山の際にも掛け声として用いられたことが知られている

登山の際に用いられた結果、音便化し「どっこいしょ」になったという説がある。

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大麻 (神道)

 

大麻大幣(おおぬさ)は、神道の祭祀において修祓に使う道具の一つで、の枝または白木の棒の先に紙垂(しで)または麻苧をつけたものである。白木の棒で作ったものは祓串(はらえぐし)とも言う。

大麻」(おおぬさ)という言葉は、本来は「ぬさ」の美称である。「ぬさ」とは神への供え物や、罪を祓うために使用する物のことであり、主として木綿(ゆう)、後には布帛が使われていた。そこから、神事に使う布帛や紙のことを大麻と呼ぶようになった。

上述の祓具としての意味のほか、伊勢神宮から頒布される神札のことも大麻神宮大麻。この場合は「たいま」とも読む)という。

大麻は、祓う対象となる人や物に向かって左・右・左と振って使用し、これによって大麻が移ると考えられている。かつては、人に対しては祓を受ける人が大麻を手で引いて穢を移していたが、後に人に対しても大麻を振るようになった。 大麻で祓った後に、小さな榊で塩湯を撒く(振りをする)場合もある。 大麻自体を塩湯が煮え立った釜に入れて振り、無病息災を祈る祭事もある事から、本来は実際に体を洗うブラシのような使い方をしていたと考えられる


 大麻は神社、仏閣のお鈴さんに使われたり、注連縄に使われたりして、神事的に何かを結びつげつけるには、必ず大麻の繊維が使われていました。
神社本殿のお鈴さんを振ることで、神様のお使いである鳥に合図を送り、そして、天に合図を送るのです。
鈴を吊るすのに大麻繊維を使うのは、麻が吊られているマツリの状態の意味をもちます。子供の頃、地元でお祭りがあると神社に御幣をもらいにいきました。
御幣とは先端に大麻繊維がついている榊で、それを持って、山車のところへ走って行き、山車の御神木に縛りつけて麻を吊り、祭りの安泰を約束したものです