西本願寺 東本願寺 何故?
京都にある東本願寺、西本願寺は、いわゆる通称というものであります
西本願寺は正しくは龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山です
一方、東本願寺は正しくは「真宗本廟」といい、真宗大谷派の本山です
戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
その時、本願寺のトップだった顕如(けんにょ)はこの決定に従って紀伊の雑賀(和歌山)に移動しました
顕如は三男准如(顕如の三男)を後継者として選び、長男教如を廃嫡してしまいました
ここで、秀吉の女遊びがあります
顕如が病没すると、秀吉は長男である教如を後継者として指名したしかし、翌年生母如春尼は顕如が自分の子供の三男准如を後継にするという生前の譲り状を添えて訴え出で許されます。
如春尼は美人で、秀吉と何かあったとのこと 小説の話です
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、
教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです
違いは、本願寺派中興の祖、蓮如上人の五帖御文の呼び方が、本願寺派が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派が「御文(おふみ)」ということ、日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます
焼香の回数が本願寺派は1回、大谷派は2回。お仏壇の様式が微妙に違うところがあります
女は恐ろしい